正常な時代感覚を持つことの重要さ 

以前のエントリーで「今は音楽の時代ではない」と書いたことについての補足。
この発言の真意は、「音楽は廃れてしまった」とか、「今の時代に音楽などやっても仕方がない」とかいう意味では断じてなく、歴史に習熟し、精確な時代感覚を持った上で音楽と付き合うことが重要である、ということを言いたかったのである。
時代によって、音楽の見え方は随分違っている。そのことが分かる例を挙げてみよう。
ドイツ・ロマン主義文学者のホフマンは「言葉が止むところで、音楽が始まる」という言葉を残し、どんな言葉でも届くことのできない至高の芸術=音楽へのオマージュを表した。また文豪ゲーテも同様に「建築は凍れる音楽である」という言葉をのこしている。
このように、この時代(18世紀後半ー19世紀前半)には「音楽的である」という形容が芸術作品に対する最高の賛辞であったことが窺える。音楽にとって極めて幸福な時代であったといえよう。
今の時代はどうだろう。槇原敬之さんが90年代のインタビューで、音楽はいつのまにか日常において心の汚れを落とす「歯磨きみたいなもの」になってしまったと形容している。これは言い得て妙だと思う。この発言のあった時期はちょうど小室サウンド全盛期ということもあるが、確かに音楽はいつの間にか、軽薄なカラオケ文化が中心となり、若者を中心としたストレス発散の道具のようになってしまった。ストレスを「心の垢」に例え音楽はそれを除去する歯磨きとは槇原氏らしい表現である。
今はそんな90年代ほど音楽にとって不幸な状況ではないと思うが、ゲーテやホフマンの時代の感覚には程遠い。
こうした現状をきちんと把握した上で、音楽と上手に付き合えるのであれば問題はないのである。
時代感覚を履き違えることの危険さを訴えたかったのである。
正常な時代感覚を持ち続けるためには、まず、歴史に学ぼう。そして社会としっかりと向き合おう。